中宮寺の歴史

 中宮寺は聖徳太子の御母穴穂部間人皇后の御願によって、太子の宮居斑鳩宮を中央にして、西の法隆寺と対照的な位置に創建された寺であります。その旧地は、現中宮寺の東方三丁の所に土壇として残っておりましたのを、発掘調査しましたところ、南に塔、北に金堂を配した四天王寺式配置伽藍であったことが確認され、それは丁度法隆寺旧地若草伽藍が四天王式であるのに応ずるものといえましょう。而もその出土古瓦から、法隆寺は僧寺、中宮寺は尼寺として初めから計画されたものと思われます。国宝菩薩半跏像(寺伝如意輪観音)はその金堂の本尊であり、天寿国曼荼羅は、その講堂本尊薬師如来像の背面に奉安されたものと伝えております。
 その後、平安時代には寺運衰退して、僅かに草堂一宇を残して本尊様のみ居ますといった状態でありましたのを、鎌倉時代に入って信如比丘尼の尽力により、天寿国曼荼羅を法隆寺法蔵内に発見して中宮寺に取り戻すなど、いくらか復興を見たものの、往時の盛大には比すべくもありませんでした。室町時代のことは殆ど判りません。
 ところが、戦国時代に入って火災に会い、法隆寺東院の山内子院に避難し、そのまま住み着いていたところ、後伏見天皇八世の皇孫尊智女王(慶長七年薨)が御住職遊ばされ、以来尼門跡として、次第に寺観を整えたのが今の中宮寺であります。  宗派は戦後、法隆寺を総本山とする聖徳宗に合流することになりましたが、依然大和三門跡尼寺の随一としてその伝統を伝えております。
 創建の飛鳥時代このかた千三百年の長きに亘り、尼寺の法燈を続けておるのは日本広しと言えども実に中宮寺だけであります。

国宝 菩薩半跏像(伝如意輪観音)について

 半跏思惟のこの像は、飛鳥時代の彫刻の最高傑作であると同時に、わが国美術史上、欠かすことの出来ない地位を占める作品であります。また国際美術史学者間では、この像の顔の優しさを評して、数少い「古典的微笑(アルカイックスマイル)」の典型として高く評価され、エジプトのスフィンクス、レオナルド・ダ・ヴィンチ作のモナリザと並んで「世界の三つの微笑像」とも呼ばれております。
 半跏の姿勢で左の足を垂れ、右の足を膝の上に置き、右手を曲げて、その指先きをほのかに頬に触れんばかりの優美な造形は、いかにも人間の救いをいかにせんと思惟されるにふさわしい清純な気品をたたえています。斑鳩の里に伝統千三百余年の法燈を継ぐ中宮寺の、この像は、その御本尊として永遠に私たちを見守ってくださるでしょう。

天寿国曼荼羅繍帳について

 日本最古の刺繍遺品として知られる「天寿国曼荼羅繍帳」は、推古天皇三十年(622)、聖徳太子の妃である橘大郎女が、太子薨去ののち、図像をつくって太子往生の姿をお偲びしたいと、宮中の采女に命じて、太子が往生なされている天寿国のありさまを刺繍せしめられたものです。
 もとは繍帳二帳よりなり、そこには百個の亀甲が刺繍され、亀の甲には一個に四字ずつ、都合四百文字で繍帳造顕の由来が示されていました。幸いその銘文の全文が『上宮聖徳法王帝説』という本に書き留められており、それによりますと、絵を描いたのは東漢末賢、高麗加世○、漢奴加己利、

これを監督したのは椋部秦久麻でした。 年を経るにつれて曼荼羅は破損し、現存するものは往時のほんの一部にすぎませんが、紫羅の上に、白・赤・黄・青・緑・紫・樺色などのより糸 をもって伏縫の刺繍が施された繍帳は、今なお目覚めるように鮮麗な色彩を残しており、七世紀中葉の染色技術、服装、仏教信仰などを知るうえでまことに尊い貴重な遺品といえましょう。 (現在、本堂に安置されているものはレプリカで、実物は奈良国立博物館に寄託されております。)

topへ