由緒 History
1300年続く
聖徳太子とその母・穴穂部間人皇后ゆかりの尼寺
中宮寺は飛鳥時代、現在地より約500m東方に創建されました。旧地の発掘調査で四天王寺式伽藍配置であったと判明。若草伽藍と同笵の瓦も出土し、法隆寺と中宮寺は僧寺・尼寺の関係にあったと考えられます。国宝菩薩半跏像(伝如意輪観音)は金堂の本尊で、天寿国曼荼羅繍帳(てんじゅこくまんだらしゅうちょう)は講堂本尊背面に奉安されていたと伝わります。
信如比丘尼による復興
鎌倉時代
平安時代になると寺運は衰退し、本尊とわずかな堂宇を残すのみとなります。それを鎌倉時代に中興したのが、興福寺学僧・璋円(しょうえん)の娘・信如比丘尼(しんにょびくに)でした。文永11年(1274)2月26日、比丘尼はそれまで所在が不明になっていた『天寿国曼荼羅繍帳』を法隆寺の綱封蔵(ごうふうぞう)で発見し、中宮寺に戻します。あわせて帳の修理と複製品の製作を行い、塔・金堂を修理するなど、復興に尽力されました。
大和三門跡として
その伝統を伝える
延慶2年(1309)の火災以降、寺は再び衰微するところとなりますが、天文年間(1532~1555)、後伏見天皇八世の皇孫・尊智女王(そんちじょおう)がご入寺。その後、後西天皇内親王、有栖川宮より姫君など、御六方がご入寺され、宮家の皇女を迎える尼門跡寺院となります。現在も宮門跡の御陵(墓所)は宮内庁が管理されています。圓照寺・法華寺とともに、大和三門跡に数えられ、なかでも最も創建の古い尼寺として、度重なる危機を乗り越え、法灯を守り続けています。